【オリンピック】バレーボールの歴史!魔女と恐れられていた日本?

バレーボール

今ではバレーボールは「日本のお家芸」と呼ばれるまでに世界に広まっていますが歴史は長く、1964年の東京オリンピックでバレーボールが正式種目になり、日本のバレーボールが強力であることが世界に知れたことで「東洋の魔女」という異名がつきました。

そんな「東洋の魔女」がソ連(現ロシア)との優勝を争う時代や、その後の全日本女子バレーボールがメダルまで届かない停滞期時代から復活時代など厳しい勝負の世界の歴史をまとめました。

東京オリンピックに現れた「東洋の魔女」

バレーボールは1964年の東京オリンピックで初めて採用された女子団体競技で、開催国が新しい競技を2競技まで選ぶことができたので、メダルを獲得する可能性の高いバレーボールが選ばれ、全日本女子は圧倒的な強さで金メダルを獲得しました。

その時の決勝、対ソ連(現ロシア)戦の試合中継の視聴率は66.8%というスポーツ中継史上一番の視聴率で今もその記録は更新されていません。

しかし、「東洋の魔女」と呼ばれ始めたのは東京オリンピックからではなく、その少し前からで、大阪府貝塚市を本拠地として活動していた日本の紡績工場のバレーボールチームが、1961年のヨーロッパ遠征で記録した22連勝が称賛されて「東洋の魔女」と呼ばれるようになり、さらに東京オリンピックではこの日本の紡績工場のバレーボールチーム“通称「日紡貝塚バレーボールチーム」”が主体となって出場しました。

全日本女子バレーボールの歴史 停滞期時代

無敵の「東洋の魔女」と呼ばれ次々と良い成績を残してきた全日本女子バレーボールですが1984年以降、選手の衰えや日本のバレーがほかの国に研究されてしまったのが原因で停滞期に入ってしまいます。

1984年ロサンゼルスオリンピック銅メダル
ロシアが不参加だったため納得のいく結果ではありませんでした。
1986年世界選手権7位
1988年ソウルオリンピック4位
初めてオリンピックでメダルを逃しました
1992年バルセロナオリンピック5位
1996年アトランタオリンピック9位

さらに成績は下降し、2000年のシドニーオリンピックでは初めてオリンピック出場権を逃しました。

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全日本女子バレーボールの歴史 復活時代

長らく停滞期が続き、2009年から真鍋政義監督が就任し2012年のロンドンオリンピックに向けてスタートしました。

データーを駆使したIDバレーで、2010年の選手権大会ではベスト4入りし準決勝でブラジルに負けたものの、アメリカに勝ち32年ぶりに銅メダルを獲得、2011年のワールドカップではブラジルとアメリカにストレート勝ちの結果を残しました。

そして2012年ロンドンオリンピックでは、準々決勝で中国と対決し勝利、ソウルオリンピック以来24年ぶりにベスト4進出を果たし、準決勝ではブラジルに敗れましたが3位決定戦で韓国を制しロサンゼルスオリンピック以来28年ぶりの銅メダルを獲得しました。

こうして徐々に全日本女子バレーボールは現在の強さに復活してきました。

まとめ

日本のバレーボールは長い歴史の中で外国の選手とどういう風に戦っていくかを常に考え、その中で日本人の強みを生かした戦いをしてきました。

1964年の東京オリンピックの選手から繋いできた日本バレーの歴史を2020年東京オリンピックの選手たちがどういうプレーで見せてくれるのか今から楽しみですね。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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